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竹下内閣時代にふるさと創生資金が配布され、様々な問題はあったが、資金はそれなりの効果を過疎の町村にももたらした。
そこで起った問題は、一つは日本人が飛鳥大和の時代から、上から下へと社会が造られて行き、さらに長い封建時代を経たために、民衆が自分の住む土地を自らの手で管理した歴史がほとんどなく、官僚主導と体制依存の型式の中で暮らさざるを得なかったことであった。自活の体験が皆無に近かった。
そこであらためてわかったのは、その土地に住む人々が、自らのふるさとについて、意外なほど知っていないという事実であった。何をすべきかが自分で選択出来ないところへ資金が来たので、結局は一過性のイベントを行い、あとに何も残せなかった町村もあった。
もう一つは、過疎の中では何をやっても駄目なのではないかと思い込んでいるあきらめが、すでに「地方」に充満していた問題であった。
個人や情報の価値よりも、誰とつながり、どの人に従属しているかの人間関係の方が大切な保守的体質の中では、誰かが何かを仕掛け、それが安全とわかるまでは動かない慣習が身についていた。
そこへ諦念がまとわりつけば、この退嬰的気持ちを、やる気に変えるのは容易な業ではなかった。
殊に伝承芸能の多くは神事(かみごと)と関連していたにもかかわらず、戦後の日本人が終戦までの日本人の精神を支えた「かんながらのみち」が国家から離れ、信仰心が大きく変化し、組織としての氏子が過疎によって分散減少していくと、もはや鎮守の杜で神事とともに上演しても、共に楽しんで観る村人が来ず、従って、演ずる人達も気力を失い、毎年か数年おきの上演になり、やがて一部しか演じられなくなっていく宿命に置かれた。
しかし、1950年代初頭に、農村の近代化政策が一応形が整った頃や1960年代はじめの高度成長が農村にも都会並みの生活をもたらし、自動車が一家に1台から一人に1台へと飛躍的に伸びたあたりでは、もう一度村に祭りをの気運が全国各地で見られ、これによって戦争で中断されていた伝承芸能が、完全な形ではないにしても、一部を復元して上演出来た町や村があった。
これらの風潮は都市が超過密となって土や緑を失い、加工食品がすべての家庭の食卓に溢れると、その反動としてふるさとや自然を求めたいとする欲望の漸増と合流し、わが村わが町を再び蘇らせようとする傾向が生れた。
ふるさと創生資金は使い方によっては、この動向に上昇気流をもたらした。
テレビの普及によって均等化が、自動車によって男女の情報吸収能力の同一化が急速に広まり、道路、鉄道、航空の交通アクセスが整備されるにつれて、日本の都市は常に同じ商品が同時に販売され、それは農山漁村に流入して来た。どこへ行っても同じ形の都市や
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